青春を捧げた推しと、それからのこと

推しを降りた。たった半年前のことだ。

誰かを一途に追うことに懲りてしまった、というか若手俳優というジャンルへの疲弊を感じた。

この人にはもう未来がないな、という感じで怒り半分、呆れ半分で降りたので、そこまで未練が残ることは無かった。未だにツイッター覗きに行ったりするけど。



そんな彼を応援していたのはたった2年だけど、されど2年、という感じである。限りある学生生活の半分を捧げたものだった。

社会人になった今、その重みを徐々に実感しつつある。


その重みの大きな要因として挙げられるのが、恋愛だったりする。



たった数年前、数ヶ月前を振り返る。もしかしたら「普通に」生きて、バカみたいに掛け持ちしていたバイトもそこそこにサークルに行って、彼氏を作って、そんな学生時代だったかもしれない。

それを選ばなかったことに対する後悔はないけれど、普通の恋愛に直面している今、自分の経験の浅さがもどかしい。


オキニの座も、推しと話すチャンスも、青春時代に私が経験してきた「疑似恋愛のようなもの」は、大方お金で解決できるものだった。(私はオキニどころかおそらく認知すらなかったけど、あくまで一例で)


それが、今はどうだろう。何よりも欲しい好きな人の連絡先は、お金で買えるものじゃない。バレなければ彼女がいても目を瞑るとか、そんなことも正直できない。何もかも違う。

だからこそ今までの経験はあくまで「推し事(笑うところ)」で、少なくとも私はリアコではなかったのだろう、とも思う。



まさか自分が普通に恋をして、どうやって声をかけたら良いんだろうなんて悩んで、そんな風になるとは思っていなかった。というのも恥ずかしい話なのだけれど、それほどには推しのことしか見えていなかった。板の上で泥臭くも輝く推しを見つめて、たまに近くで話をできるだけで、全て報われた気になった。なんだかんだ最後の方は病んでたけれど。



応援をすっぱり辞めて一歩前に踏み出せたかと思った私自身も、今また新しい局面を迎えている。好きな人はおそらく脈がないし、仕事に関しては隣の芝生がやたら真っ青に見える。

家に帰ったらまるでルーティーンのように一人で酒を飲み、もしかしたら私もかつての推しのように没落しつつあるのかもしれない、なんて感傷に浸ってみる。




青春を捧げた推しは、いまや見る影もない。






(20180828 加筆修正)